猪十戒の石の叫びと祈り(教憲教規等の解説と思い)

猪十戒(高槻教会信徒である安田信夫)が、日本基督教団の運営に対して、一致と前進を求めて問題指摘、提言を行うためのブログです。私が感じたことを素直に表現し、また行動します。優しい忠告など、歓迎いたします。コメントをどうぞ。

飯野敏明さんの「私を食せ -神の招き- 」を読んで

 3ページに渡る長文の意見表明ですから、主張点が本当に良く整理されていて読みやすく、分かりやすく、まことにそうだとのアーメンの連続になりました。

 全体は、タイトルにある「私を食せ」とのキーワードをベースに聖餐理解のあるべき方向が分かりやすく示されていました。

 初代教会が、「主の晩餐」を特別に意味づけ、「聖餐式」が形成され固定化される流れに対して、自らの存在全てを「献身食」として提供するイエスにおいて聖餐式の主客は再び逆転され、神の国の食事は改めてすべての人に解放されているとの展開は説得力がありました。

教団中央への思いもまことに的確です。

教会は軍隊組織やカルト集団のような「悪しき集団主義」に陥ってはなりません。自戒すべきは、組織内の規範が絶対化され、規範への一方的な服従が構成員に要請される時、その組織は、愚かしいほどに、自己絶対化と排除の論理の奴隷と化してしまうということです。今回の教団議長をはじめとする多くの常議員達の判断はこの「愚かさ」に通じます。

 教団執行部の念頭には、今回の判断には「聖礼典の混乱」に対する「教会の大義」を守る「正統なる戦い・聖戦」という意味が込められているのかもしれません。ただ、よくよく考えて見れば、「キリストの体たる教会」が、真に戦うべきこの世の相手は一体誰であるのか、現執行部はその相手を根本的に間違えているように思います。

 本当にそう思いますが、書かれているように規範が絶対化されるときには、必ず規範の真意からの読み間違いがその背景にあることが多いことを指摘していきます。

 実は絶対化されるのは、「組織の規範」そのものではなくて、「それを主張する人が理解する規範」なのです。今回の例で言うと、聖餐式に対する一部の人の見解が、教憲教規ではそのように定めていないにも係わらず、「規則ではない。規則にはなりえない準則第8条」を持ち出して絶対化し、教規違反を叫ぶという愚かしいことをやっているのです。

 組織内での自己絶対化が始まるときには、私たちは目を覚ましていて、チャンと抵抗しなければなりません。それも、チャンと組織の規範を正しく理解し運用させることで成さねばなりません。   (羜十戒 & 攄十戒)