猪十戒の石の叫びと祈り(教憲教規等の解説と思い)

猪十戒(高槻教会信徒である安田信夫)が、日本基督教団の運営に対して、一致と前進を求めて問題指摘、提言を行うためのブログです。私が感じたことを素直に表現し、また行動します。優しい忠告など、歓迎いたします。コメントをどうぞ。

信徒による「日本基督教団 教憲教規および諸規則」「先例集」の研究資料室のホームページを開設

ホームページ『信徒による「日本基督教団 教憲教規および諸規則」「先例集」研究資料室』を解説しました。

私が今日開設したホームページです。このブログでコメントした教憲教規の解説や見解などをまとめて行きます。資料室となずけているのは、将来的には、教憲教規の制定以前からの歴史的資料から、教憲教規の改正の記録資料などを収集・展示できるようにしたいとの願いの現れです。

信徒による「日本基督教団 教憲教規および諸規則」「先例集」研究資料室のホームページ

同志社の原先生の公開講演会資料に接する。

 原先生の文書の中から、「長老派、メソジスト、組合派(会衆派)のどれをとっても、教派神学的には「未受洗者への配餐」は、その根拠はない。これを前提としなければならない。」との記述に接しました。神学的な観点からはそこから離れられない現実を重く受け止めました。私はひたすら文理解釈的な視点から見ると、教憲教規には「未受洗者への配餐」を禁止している規定は無いと感じていますから、神学の理解と法学の理解の差を痛感しました。私の見解を点検する参考にさせていただきたいと思います。

 しかし、教憲教規の成文規定は、洗礼(バプテスマ)、聖餐、按手礼、准允などの言葉を、事務的な手続きの必要で使う場合以外の定義・説明を徹底的に避けているように思えますが、そのことは神学的・教理的な観点ではどのように理解されているのでしょうか。教憲教規は、合同教会に与えられた成分の組織運営のために必要な最低限のことを定め、教派神学的に一致できない部分は極力成文規定から除外するように工夫されていると理解するのはおかしいのでしょうか。これからの私の課題です。

「会衆主義から見たサクラメント-宣教の課題として」原 誠先生の公開講演会