猪十戒の石の叫びと祈り(教憲教規等の解説と思い)

猪十戒(高槻教会信徒である安田信夫)が、日本基督教団の運営に対して、一致と前進を求めて問題指摘、提言を行うためのブログです。私が感じたことを素直に表現し、また行動します。優しい忠告など、歓迎いたします。コメントをどうぞ。

教憲前文の検討その2 「聖なる公同教会」の定義と、それが志すもの

教憲前文の第1項 (「聖なる公同教会」の定義)の確認

神は万国万民のうちからキリストに在って聖意(みこころ)に適う者等を召して、これを聖別し、恩寵(ちょう)と真理とをあらわして、聖霊による交わりに与らしめたもう。これがすなわち聖なる公同教会である。

 この第1項は、二つの文章から成っています。前半の文章で「聖なる公同教会」とはどのようなものであるかを示し、後半の文章で、「これがすなわち聖なる公同教会である。」と宣言する構成で作られています。

 後半の文章で使われているすなわちは無くても意味は通じるし換わらないと思いますが、あえて入れてあることの意味を考えて見ましょう。

 国語辞典によれば「すなわち」は、「前の事柄を受け、その結果として後の事柄を現すことを示す。つまり、とりもなおさず、言いかえるとなど」*1ですから、前半の文章で示される事柄を受けて、つまりそれが「聖なる公同教会」であると強調しているのだと理解できます。

 この事から判るのは、第1項の中心は前半の文章で、前半の文章で示された内容が「聖なる公同教会」そのものであると言うことになります。

「万国万民のうちから」は、この世で唯一の「聖なる公同教会」を示す!

 前半の文章は、「神は」で始まり「万国万民のうちから」と召されるものを世界中の全ての民から選ばれた事を示し、それに続けてすぐに「キリストに在って聖意に適う者等を召して、」」記されています。

 神が全ての国・民のうちから選ばれた事は、後で述べられる「聖なる公同教会」が、この世で唯一つものである事をはっきり示しています。個々の国々の民が作る限定された人の組織する教会ではなく、主にある唯一つの教会が「聖なる公同教会であると宣言されているのです。

「キリストに在って聖意(みこころ)に適う者等を召して、」の意味は!

 そして大切な事は、万国万民のうちから召された者の説明が、キリストに在って聖意に適う者等を召してと成っている事です。「聖意に適う者を召して」でもなく「ただ恩寵よって召して」でもない事にです。「聖意に適う適う者を召して」との記述からは、「本来なら聖意に適う事の適わない私達をも、を追加する事で「召して」下さるところに、主の聖意(みこころ)が現れています。神が欠けの多い私達をもめぐみによって「召して」下さったのです。それは神の御業です。

「これを聖別し、」の意味は!

 私達を召して下さった神様は、この段落でその私達を「聖別し」て下さったことが宣言されています。これも私達に資格が有ったのではなく、ただただ神の恵みの御業です。

「恩寵(ちょう)と真理とをあらわして、」は福音の中心部分です。

 しかし、それについての説明・定義は示されていません。「恩寵(ちょう)と真理」は聖書においてイエス様が解き明かされ、私達の罪を贖うために十字架に懸かって下さった事実に示されています。まさにキリスト教の教義の中心です。しかし教憲前文にはその内容についての記述は全くありません。ただ「恩寵(ちょう)と真理とを」とのみ記述されて射るのみです。私達は教憲前文を読むときにその事実を直に受け入れる事が必要です。

 私は教職では有りませんから、この事実が割りと直に受け入れられます。教職の先生達は、教理に着いて深く研究されているから、なかなかそのような理解に手折りつけないかも知れません。しかし、決まりを直に読むためには、書いてない事は、「書いてない」とすなおに受け入れなければ成りません。それが規則解釈の基本です。

聖霊による交わりに与らしめたもう。」とは、私達の応答を示す。

 そしてそのように召された私達は、神は「これを聖別し、恩寵(ちょう)と真理とをあらわして、」と記されているように、神によってあきらかにされた「恩寵と真理(=「主の福音)」受けて、聖霊による交わりに」「与(あずか)らしめたもう。」と宣言されます。

 「与(あずか)らしめる。」を国語辞典で調べると、「与(あずか)る」とは「願わしいことにかかわったりその恩恵を受けたりする」とか、「目上の人が配慮してあることをして下さる」という意味です。*2 また、「らしめる」とは「目前の状況について、その原因である事実を推定する意を表すと共に、そのように誘発する(導く)意を表す」ものです。

 ですから、私達が神から与えられた福音の恵みに接し、それに応答するように導かれ応答する。そういうことが「聖霊による交わりに与(あずか)らしめたもう。」という事です。

神学的な素養の乏しい私の解説です。間違っているところがあればご指摘下さい。

解釈上で大切なポイントは!

 私が解釈上で大切なポイントと思うのは、万国万民のうちから聖意に適う者等を召して聖霊による交わりに与らしめたもうです。

また、「恩寵(ちょう)と真理とをあらわして、」の記述は、福音の中心を示す言葉であるが、その内容は聖書の御言葉から聞くべき事柄で、この教憲で示されているのではない事尾を直に受け入れる事です。

 信徒による勝手な解釈です。ご批判は多く有るかも知れません。感想・ご批判をお待ちしております。

                         (羜十戒 & 攄十戒)